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雨はまだ止まない。
まるで、泣けない私の代わりに、天(そら)が泣いているかのように。
あたりはまだ焼け焦げた臭いが立ち込めていた。
一体どこなのだろう、ここは。確かにここに居たのに。ここで暮らしていたのに。もう見る影もなくなってしまった部屋。
まだ目蓋に焼き付いて離れない。オイルライターの炎に無残に蹂躙された部屋。そして、赤く染まっていく身体…
一番、大切な人。
子供の頃からずっと一番大好きな人。
「ねえ、真一朗…私まだ、ちゃんと言ってないよ?」
まだちゃんと伝えてない。
ずっと言いたかったこと。
一番大切なこと。
「もう…言わせてもくれないの……?」
大切な人はただひとり。
失いたくなかったのは、
たったひとりの……
「真一朗…っ」
覚悟なんて、していたつもりだった。でも、そんなもの、本当はしたくなかった。
失う日が来るなんて、思いたくなかった。
心を占めるのはたったひとりの人。
いつでも笑っていてほしかったから。
時折垣間見える翳を少しでも取り除きたかった。幸せになってほしかった。
それだけが、願い。
強さの裏に隠された寂しさと弱さを、どうしたら拭い去れるのか、それを知りたかった。
だから、たとえ違う道を行っても、大丈夫だと思った。
なかなか会えないのは寂しかったけど、それでも我慢できた。
あなたの笑顔を守れるなら、それでよかった。
どこで間違えたのだろう。
ただ、あなたが幸せになれるなら、それでよかったのに。
胸に去来するのは、数え切れない罪と後悔。
降り続く雨でさえ、洗い流しきれない程の。
あなたを失わずにいられるのなら、何だってできたのに。
自分は、みんなが思ってるような人間じゃない。
たったひとりの人のためになら、何でもする。それでたとえ、何かを失っても。誰かを傷つけても。
そんなエゴにまみれた人間だから、…だから。
これが私に与えられた罰なんだろうか。
雨音が聞こえる。
雨はまだ止まない。
きっと私の代わりに泣いてるんだ。
…だとしたら。
この雨はいつ止む?
そう、何だってできる。
あなたを失わないためなら。
絶対に、取り戻してみせるから。
●
―― 赤い。
目の前を彩る景色はすべて赤く塗りつぶされている。
ああ、これは俺の血か…
ドクドク
ドクドク
いっそ、このまますべてを終わらせるか? この自分の血と一緒に、すべての罪も後悔も流れ出てしまえば ――
誰かの嗚咽が聞こえる。大丈夫だから、と、必死に、まるで自分自身に言い聞かせるかのように。
一番、大切な人。
ガキの頃からずっと一番大好きな人。
このまま俺が死ねば、もう失うことに怯えることもない。むしろ、俺の死に縛り付けることができる。一生、俺のことを忘れずに、生きていく ――?
……違う。
違う、そうじゃない。それじゃダメなんだ。
もう泣かせないって、もうこれ以上そんな顔させないって言ったのは自分なのに。
ずっと傍に居ると、誓ったのに。
だからまだ俺は死なない。死んでなんかたまるか。七海の傍に居るのは、自分だから。
誰にもそれだけは譲れないから。
…一瞬の閃光。世界が暗転する。重いドアの軋み音が響いて、―― そして。
「ふっ…、やはりしぶといな」
「生憎…往生際が…悪いんでね……」
まだ、終わらせるわけにはいかない。
・
・
・
数え切れない罪と後悔を、洗い流すことなんてできない。
…それでも。
きっといつか、この雨は止むから。
「七海ちゃんは強いな」
空くんの言葉に、表情が曇るのが自分でもわかった。その言葉を聞いた私は、
「強くなんて…ないですよ」
そう、呟くしかなかった。
私は、強くなんてない。
私がもっと強ければ、きっと、こんな事にはならなかった。
目の前にいる空くんや、去っていった直くん達の人生を狂わすこともなかった。
そして…
一番大切な人を…あんな目に遭わすことも。
後悔だけは数え切れないほどあって。
それでも、立ち止まっているわけにはいかないから。
…それに。
立ち止まってしまったら、きっと気が狂ってしまう。
狂ってしまえたら楽なのかもしれない。
でも私には、まだすることがある。
しなければならないことがあるから。
そして何より、伝えたいから。
一番大切な、あの人に。
俯いていた私の頭上に影が落ちたと思った瞬間、いつの間にか私よりも大きくなっていたその腕に抱きしめられていた。
「空くん…?」
「オレ、前に言っただろ? 兄ちゃん追い越していい男になるって。あれ、本気だから。七海ちゃんが思わず惚れちまうくらい、いい男になるから」
それはいつか、保健室で言われた言葉。
「けどさ、やっぱ正面から…正々堂々と勝負したいんだ」
真っ直ぐ見つめてくるその表情はちょっと泣きそうで、それでも笑っていて。
ああ、やっぱり立ち止まってなんかいちゃいけないんだね。
すべてを知っても、それでも想ってくれる人の為にも。
私は、負けるわけにはいかないんだよね。
「ちゃんと勝負して、勝ってみせる」
……ありがとう。
「だからさ」
ありがとう、空くんの言葉はいつも私に元気をくれるよ。
「絶対、兄ちゃん取り戻そうな」
その力強い言葉につられて。
「……ええ」
やっと、少しだけ笑えた。
ねぇ、真一朗。
このままじゃ、空くんにもっていかれちゃうよ?
それでもいいの?
……よくない、よね?
だから…お願い。
どうか。
どうか、無事でいて ――
「七海ちゃんは強いな」
ふと漏らしたその言葉に、七海ちゃんの表情が僅かに曇る。そして自嘲気味に、
「強くなんて…ないですよ」
そう、呟いた。
そんな悲しそうな表情(かお)をさせるつもりじゃなかったのに。
きっとまた、自分を責めてる。何も言わず、ひとりで背負い込もうとしてる。
こんな場面(とき)に、いつも隣で支えていた人を奪ったのは ―― オレ。
オレがこの人から、一番大切なものを奪ってしまった。
オレにとって大切な、この人から。
…それなのに。
オレはこうして、この人の傍に居る。
そんな表情(かお)を見たくなくて、思わずその細い肩を抱きしめてる。
「空くん…?」
……オレには、そんな資格なんてないのに。
「オレ、前に言っただろ? 兄ちゃん追い越していい男になるって。あれ、本気だから」
わかって、いるのに。
「七海ちゃんが思わず惚れちまうくらい、いい男になるから」
わかっているけど。
「けどさ、やっぱ正面から…正々堂々と勝負したいんだ」
覗きこんだ七海ちゃんの瞳にオレが映ってる。その瞳に映る表情はちょっと泣きそうで、でも笑ってる。
ああ、そっか。オレもちょっとは笑えるようになったんだ。
きっと、目の前にいる人のおかげだ。
どれだけのものを、この人から貰ったんだろう。
確かに出会わなければ、普通の人生を送れていたかもしれない。
でも、こうして出会って、傍にいて。いつの間にか、その存在がオレの中で大きくなって。
間違っちゃ、いけないんだ。
怒りの矛先を。進むべき道を。
「ちゃんと勝負して、勝ってみせる」
やっぱり、諦めるなんてできないから。
「だからさ」
―― だから。
「絶対、兄ちゃん取り戻そうな」
「……ええ」
大好きな、その笑顔を見せて。
なぁ、七海ちゃん。
オレ、七海ちゃんの笑顔を守れるなら、何だってできるよ。
たとえその笑顔が、誰かのものでも。
それでも、オレが…守りたいから。
だからさ、今だけでも、オレが支えになるよ。
……それくらい、許してくれるか? 兄ちゃん ――
薄れ行く意識の中で、覚えているのは紅く彩られた景色と、そして、一番大切な人の姿。
奪われていく体温。
それでもまだ、終わらせるわけにはいかないから。
ギィ…
重い扉の軋み音が響く。
「ふっ…、やはりしぶといな」
まだ目が霞む。ぼやけた輪郭はそれでも紛れもなく一番会いたくない奴のもので。
「生憎…往生際が…悪いんでね……」
どうにか絞り出した声で、それだけ言うのがやっとだった。
「まあ、そうでなくてはつまらんがな。……おい」
背後から現れたのは、よく知った人物。
……あの時、置いていかなければ。助け出せていれば。
おまえにこんな役目をさせなくて済んだのだろうか ―― ?
「しばらく面倒をみてやることだ」
「…はい」
歩み去る靴音がやけに耳につく。相沢の足音が遠ざかっても、しばらくは無言のまま、静かに睨み合っていた。
「……もう、気がついちゃったんだ」
沈黙を破ったのは直の方だった。静かに、抑揚のない声で。
「相沢の薬か?」
「そう、クリスくんが使ったのよりもっと強力なやつだよ。集団に幻覚を見せる」
やっぱり、か ――
流れ出る血も、奪われていく体温も、はっきり覚えている。
それなのに、傷はどこにもなかった。
「……どうゆうつもりだ?」
「………別に」
「恨むならオレと七海だけにしとけ」
「…っ、うるさい………っ」
そう呟いたオレに直は苛立った目を向ける。
「ああ、そうだよ。恨んでるよ、おにいちゃんも七海先生も、憎くて憎くて堪らないよ。なんでオレだけこんな目に遭わなきゃいけないのさ。オレのこと忘れた空ちゃんも、ひとりだけ無事だった祭ちゃんも、みんな…みんな、大っ嫌いだよ ―― っ」
「…だったら」
そっと手を伸ばす。
「なんでそんな哀しそうな瞳で泣くんだ…?」
「……っ」
なあ、直。
もう、おまえだけが犠牲になることなんてないんだぞ……?
「…ごめん、おにいちゃん」
「!」
聞こえるか聞こえないかの小さな呟きとともに、意識はまた深い闇へと落ちていった ――
…ごめんね、おにいちゃん。ごめんね、七海先生。ごめんね、祭ちゃん。
でももう少しだけ、付き合って。この茶番に。
あと、もう少しだから。
どちらも本当。
憎くてたまらない。
………でも、
愛しくて、気が狂いそうになる。
もう二度と、その笑顔を向けてくれなくても。
もう二度と、この手を掴んでくれなくても。
自分が選んだことだから。
自分で決めたことだから。
だから。
……さよなら、空ちゃん。
―― この想いだけは、誰にも……
ご意見・ご感想、その他神崎と連絡を取りたい場合には、
下記のメールアドレスの★を@に変えて宛先として下さい
windoff★hotmail.co.jp
必ず帰るから。
だから。
泣かないで ――
竜宮島が、本当の楽園になって。
新しい生命が芽吹き始める頃。
柔らかく降り注ぐ、暖かい日差し。
頬を掠めていく、春の匂いを運ぶ風。
…けれど。
(いない…)
自分の中に、ずっといると言った。
それでも。
(いない……!!)
●
ピッ
「はい、今日はもうこれでいいわよ」
「ありがとうございました」
通い慣れてしまった診察室。
けれどその室内は、まだぼんやりとした輪郭しかもたない。
同化現象による失明に近い視力の低下は、快方に向かっていると言われはするが、果たして本当にそうなのか。
右足を少しひきずるようにして扉を開ける。
「あ、一騎くん。あの…」
「どうした? 遠見」
廊下に出ると、真矢とカノンが待っていたかのように立っていた。
「あのね、来週みんなでお花見しないかな、と思って」
「剣司も来る。咲良も少しなら外に出てもいいと許可はもらってある」
畳み掛けるように言われて、少したじろぎながらも、一騎は2人の顔を見比べた。
あまりよくは見えないけれど、なんだか必死な顔をしているような気がして。
思わず苦笑が洩れる。
「うん。…いいな、それ」
「あ、じゃあ」
「決まりだな」
また詳しいことは連絡するから、と嬉しそうに言う声を後に、遠見医院の外に出る。
途端に太陽の光が全身を貫いていく。
「…いい天気、なんだよな…」
思わず空を仰ぐと、その蒼さが目に刺さってくるかのようだ。
「………」
ふいに零れた雫は、その光が目に痛かったから。
それ以外の理由なんか、ない。
…そう、自分に言い聞かせても。
「……士…っ」
もう届かない名前が口をつく。
「俺が…他の奴のものになってもいいのかよ……っ」
空の蒼さが憎い。
この心は、ずっと雨が降り続いているのに。
あの日から、ずっと。
遠ざかっていく一騎の背中を見送ってから、思わず真矢とカノンは顔を見合わせた。
その顔には、先程までの笑顔は欠片もなくて。
「一騎の体、一向に良くなってないじゃないか…」
苦しげに吐き出すカノンの脳裏に浮かぶのは、同化現象による結晶化が進んでいたにも拘らず、それでももう歩けるようにまでなった咲良の姿。
「真壁紅音が与えてくれたデータは役に立っているんだろう?」
「……心の問題なのよ」
「おかあさん」
診察室から出てきた千鶴が話に加わる。
その顔も、苦渋に満ちて。
「紅音さんがくれたデータのおかげで、本当は随分よくなっているはずなの。だけど…」
言葉を濁す千鶴の前で2人は項垂れた。
口にするまでもない。
理由はわかりきっている。
総士が、いないから。
あの日、この島に戻ってきて。
助け出したはずの総士の姿だけがなくて。
一騎は多くは語らなかった。
皆の前で泣くこともなかった。
けれど、どんなに隠そうとしても。
その痛みは、隠そうとすればするほど感じられて。
その瞳も、何の色も映さなくなっていた。
それは、決して同化されたからだけじゃない。
「わたしたちは…何もできないのか…」
悔しそうに、ぽつりとカノンが呟いた。
「…一騎くんが、一番傍にいて欲しい人、一番傍にいたい人は…今も前も、たったひとりだから…」
ずっと見ていたから。
わかってしまったこともある。
そう、あのふたりが、互いを必要としながらもすれ違っていた時から、ずっと。
「あたしたちは、あたしたちでいること。それがあたしたちができる、唯一のことだよ」
…本当は。
とても、悔しいけれど。
●
思うように動かない体をどうにかひきずって、家に続く長い階段を登りきる。
家の扉を開けようとして、ふと視線をそちらに向けた。
『一騎』
初めてファフナーに乗って、今みたいに体をひきずって帰ってきた時。
そこに、総士がいて。
「………」
情けないとは思う。
みんなが心配してくれていることも知っている。
けれど。
見えない目で、それでもいつも探してる。
たったひとりを。
ずっと、探してる。
「……っ」
一度大きく頭を振って、それから扉に手をかけた。
「…ただいま」
「おかえり」
小さく帰宅を告げると、それでも作業場の方から声が返ってくる。
司令を務めていた父も、今ではまた以前のように、作業場に向かっていることが多くなった。
ろくろに向かう父の背中は、よく知っていた。
けれど、いつからだろう。
広かったその背中が、小さくなった気がした。
ぼんやりとその背中を見つめていると、
「おまえもやるか?」
振り向かずにそう言われて、一騎はおずおずとそちらに向かった。
『帰ったら、教えてほしいことがあるんだ』
北極に行く前に、そう頼んでいたけれど。
結局、いまだに教えてもらってはいなかった。
…何も、する気が起きなかったから。
父の手の中で、ろくろが回る音だけが響く。
じっとそれを見つめて、ぽつりと一騎が呟いた。
「母さんがいなくなった時…父さん、どんな気持ちだった…?」
それはずっと訊きたかった、とても残酷な問い。
その問いに、史彦の手が止まる。
「……言葉で言い表せたら、まだ楽だったのかもしれないな」
「………」
「でも紅音は、おまえを残してくれた」
「……でも、俺…」
「………」
「俺には、何もない……っ」
最後に触れたのはいつだっただろう。
自分の中にいつもいると言った。
けれど、もう。
触れられない。
触れてもらえない。
声を聞くことすら、叶わない。
「総…士……ッ」
吐き出すように呟いた名前。
溢れ出す涙。
…自分では、どうしようもない。
止められるのは、たったひとり。
そっと頭を撫でるようにくれた父の手の温もりですら、敵わない。
『必ず帰るから。おまえのいる場所に……』
待ってる。
ずっと、待ってる。
だけど。
いつまで、待てばいい?
(帰ってこい、早く…)
会いたい。
会いたい、から。
『いつか必ず、帰るから』
(総士…っ)
…ずっと。
ここで、待ってるから。
--- 2004.12.28 ---
(※『rain』ラストより)
鈴村神社で倒れている皆城総士が発見されたのは、それから1週間後のことだった。
●
総士発見の報は、狭い島内に瞬く間に広まった。
けれど、面会はアルヴィスのごく一部の者にしか許されず、その身柄は隔離されたまま。
一向に会うことは叶わず、焦りだけが募り、無為に時が過ぎた。
「なんで会わせてくれないんだ、父さん!!」
この今の一秒だって惜しいのに。
どんなに懇願しても、一騎の願いは聞き入れられることはなかった。
「父さん!!」
頑として首を縦に振ろうとはしない父に苛立った一騎は、遂に痺れをきらした。
踵を返して家を飛び出そうとする一騎を、史彦は強い口調で呼び止めた。
「待て、一騎! 行ってもおまえは会えない!!」
「嫌だ!! 俺は…、俺は、総士に会いたいんだ!!」
そう叫んだ一騎の瞳に、うっすらと涙が浮かんでいるのに気付かぬわけもなく。
そして、総士が見つかったと知らされたときから、一騎の体に起きていた同化現象が嘘のように消えていったことも。
…だからこそ、だった。
一騎や、他の子どもたちに、総士を会わせなかったのは。
重い溜息をひとつ吐いて、それから史彦はゆっくりと口を開いた。
「…そんなに会いたいのか?」
「当たり前だろ!?」
思えば、今まで我儘らしいことをほとんど言ったことのない息子の、一番の我儘なのかもしれない。
たとえどんな結果になろうとも、それを叶えてやるのも、その結果を見守るのも父親の役目だろう。
「わかった」
「え…」
「総士くんに会わせてやる」
「ほんと、に…?」
途端に、一騎の顔にまるで花が咲いたかのように笑顔が浮かぶ。
けれど、それに反して史彦の表情は重苦しいままで。
そんな父の表情と今までの経緯に、何か得体の知れない黒い靄のようなものが胸に渦巻くけれど、敢えてそれに気付かぬふりをして、一騎は父の後に続いた。
総士に会える。
今の一騎には、それがすべてだった。
●
「これからまた、新しい思い出いっぱい作ればいいんだよ」
狭い病室に、真矢の明るい声が響く。
敢えて明るく振舞っているのだと、誰もが知っていた。
けれど、それでもみんな嬉しかったのだ。
総士が戻ってきたことが。
アルヴィスの救護室から総士の身柄が遠見医院に移されたのは、つい今朝方のこと。
まだあまり出歩くことのできない咲良を除いて、剣司やカノン、里奈達も見舞いにきていた。
ベッドを取り巻くみんなの姿を、一騎はひとり離れて見ていた。
ぼんやりと、扉に凭れたまま。
昨日、父に連れられてアルヴィスに赴き、総士に会う前に告げられたことが、まだちゃんと受け入れられずに。
すべてが、まるで遠い世界の出来事のようだった。
『今の総士くんには、ないものが2つあるの』
それでも、はっきりとその言葉は覚えている。
部屋に入る前に、千鶴の口から発せられた言葉たち。
父がいてくれなかったら、立っていることもできなかっただろう。
心臓は早鐘を打ち、大地が揺れているかのように足元は覚束ず、それでもゆっくりとそちらに向かう。
告げられた通りのことが、目の前で起きても。
「総士…」
それでも、喜びの方が大きくて。
振り向いたその瞳が、自分を捉える。
その瞳に、また自分の姿が映ること。
今、目の前に。
そこに、総士がいるということ。
そう、たとえ……
『今の総士くんには、左目の傷痕がないの。そして』
「…誰…?」
『今までの記憶も ―― …』
この自分さえも、忘れていたとしても。
●
この春から、高校生になる。
島には中学校も高校もひとつしかないから、あまり代わり映えしないけれど。
それでも、みんなで卒業式を迎えることはできなかった。
カノンという新しい仲間は増えた。
けれど、翔子も、衛も甲洋も、果林ももう、居ない。
校長も、先生たちも。
そして、まだ病床を離れられなかった咲良も出席はできなかった。
……いなくなった、総士も。
壇上で渡されなかった卒業証書は、無理を言って一騎が預からせてもらっていた。
必ず帰ってくると信じていたから。
だから、帰ってきたら渡すのだと。
「じゃあ、みんなで皆城くんの卒業式やろうよ」
そう言い出したのは真矢だった。
証書を渡すのは、元の生徒会長・剣司の役目。
本当はみんなと同じように学校の体育館で行いたかったけれど、まだあまり体調のよくない総士を気遣って、病室ですることにしたのだ。
総士は戸惑いながらも、それでも笑顔を浮かべて。
記憶がないということを、総士も、そしてみんなも受け入れて、それでも笑い合うことができていた。
ただひとり、一騎を除いて。
「まだ検査の段階ですが、紅音さんや甲洋くんのパターンともまた違うみたいです。マスター型ともコアギュラ型とも違う」
頭にずっと繰り返され続ける言葉。
「総士くんの場合は、かと言って、普通の記憶喪失のケースとは考えないほうがいいと思うんです」
救護室を出て、父に支えられたまま千鶴から受けた説明は、信じたくないけれど、本能的にそれが真実だと知っていた。
フェストゥムの”祝福”を受け、一度は肉体を失って、フェストゥムの側に行ってしまった総士。
自分が信じている限り、必ず帰ってくると言った。
そして、帰ってきた。
けれど。
「通常のケースなら、たとえば同等のショックを与えれば戻る可能性もあると言えるけれど…」
言葉を濁す千鶴をただじっと見つめて、続く言葉を待った。
「今の総士くんの場合、そもそも記憶自体が最初からないとも言える」
そう、もしかしたら。
総士だけれど、総士じゃない。
だから、”皆城総士”としての記憶を最初から持ちえない。
左目の傷痕がないことが、それを裏付けているかのようでもあった。
総士の左目の傷痕。
それは、幼き日の過ち。
今ではその真実も知っていた。
けれど、それは確かに自分のつけたもの。
それで自らを縛り、そして総士をも縛り付けていたこともあったけれど。
それでもその傷痕ですら、自分たちだけの絆でもあった。
その傷痕も、ない。
想い出も、何もかも。
今の、総士には ―― …
「…くん…、一騎くん」
「遠見…?」
気付くと、すぐ目の前に真矢が立っていた。
どうやらずっと呼んでいたらしい。
「ぼーっとして、どうしたの?」
「え、あ、いや…」
仕方ないなー、と呆れて笑う真矢も、本当は気付いているのだろう。
彼女は、人の気持ちに敏いから。
「ね、今からみんなで写真撮ろう? 皆城くんの卒業記念写真」
そう言って、いつも使うカメラを見せた。
このカメラも、今では父親の形見となっていた。
女は男なんかよりずっと強いと思う。
道生を喪った弓子も、今では以前のように明るく、そして気丈に振舞っている。
それに比べ、自分はどうだ。
今の自分には、形はどうあれこうして総士がいる。
それなのに。
「562引く560はー?」
「2!!」
狭い病室に響く、シャッターの音。
明るい笑い声。
柔らかい空気。
それさえも。
今の自分には、乾いていた。
●
「ここ…?」
「うん」
空気の抜けるような音とともに、その部屋の扉が開く。
中は、初めてこの部屋に案内されたときのまま。
必要最低限度の調度品しかない、簡素なもので。
総士らしいといえば総士らしいけれど。
その時の様子を思い出して、思わず一騎の頬が少しだけ緩む。
それでも。
その記憶すらも、痛みを伴って。
「何もないな」
この部屋の主であったはずの総士ですら、そんなことを言う。
「うん、多分、あんまり私物とかないとは思うけど…」
その総士が、壁の一点を見つめて立ち尽くす。
そこには、このアルヴィスに他の皆が初めて入ったときに、記念として撮った写真が飾ってあった。
「やっぱり、傷がある」
「………」
記憶のない今の総士に、それでも何も説明するわけにもいかず。
療養と検査を兼ねて遠見医院で過ごしていた間に、千鶴がある程度のことを話していたらしい。
この島のこと。
今はもういない人たち。
そして、総士の左目の傷痕。
傷に関しては、真実は一騎と総士、そして島のコアである乙姫しか知らない。
だから、特に言うこともなかったのだろうが、見舞いにきていた剣司がうっかり洩らしてしまい、知ることになった。
「この写真も、持って行っていいかな」
「…おまえの、だから」
それから簡単に荷造りを済ませる。
やはりというか、ほとんど総士の私物はなかった。
「本当にいいのかな」
「何が?」
唐突に切り出されて、一騎が不思議そうに総士の方を振り返る。
「君の家にご厄介になるってこと」
「…別に、今更そんなこと、気にすることない」
ずきん
”君” ――
その呼び方さえ、胸を刺す。
こんなに近くにいても、遠く離れてしまったみたいで。
会いたくて仕方なかった総士が、今、目の前にいるのに。
「…一騎?」
「あ…」
訝しげに見つめてくる総士の視線はまっすぐで。
伸ばされた手が、この頬に触れる。
思わずびくんと体が強張った。
総士の声。
総士の体温。
すべて、自分が望んだもの。
だけど。
「ごめん、何でもない。…行こう」
すべてを、振り払うかのように。
踵を返して、その部屋を後にした。
身寄りのない総士は、真壁家に引き取られることになった。
「美味しい」
無駄な努力をしているのかもしれない。
それでも、少しでもいいから、思い出してほしくて。
一騎は総士が特に好きだった献立でその日の夕食を作った。
といっても、総士は一騎が作ったものなら何でも残さず食べて、美味しいと言っていたのだけれど。
「そっか。よかった…」
その言葉に素直に安堵する。
「…僕は、君の作った御飯、好きだったと思う」
「え」
突然言われた言葉に、思わず総士の顔を凝視してしまう。
すると、総士はにっこりと笑って。
「そんな気が、するんだ」
「………」
思わず溢れそうになる涙を押し隠すように一騎は立ち上がった。
「お、おかわりならいくらでもあるから」
そう言って、台所へと慌しく降りていく。
「……っ、そ…し……」
冷蔵庫に背中を預けたまま、ずるずると崩れ落ちるように床にへたり込む。
涙が床を濡らすのも構わずに、一騎は声を上げずに泣いた。
●
長い長い階段を登りきって、その場所へと辿り着く。
あの日と、同じように。
春の風が、ふたりを追い抜かすように吹き抜けていく。
「いい天気だね、本当に」
その言葉に、一騎もつられて空を仰ぐ。
抜けるような青い空。
その眩しさに、思わず目を細めた。
島を案内して欲しいという総士の頼みで、今日は朝からふたりでいろんな場所を歩いた。
そして、最後に着いたのがここ。
「ここ、僕が発見されたっていう場所?」
「ああ。…けど、それだけじゃない」
「え…」
すべての、始まりの場所。
自分たち、ふたりにとって。
この、鈴村神社が。
「一騎…?」
驚きに見開かれた瞳。
思わず呟かれた名前も、すべて封じるように。
自分からその唇を塞ぐ。
よく知った感触。
知りすぎる、ほど。
「…思い出せよ……っ」
「かず……っ」
膝をついて、徐に総士の中心に顔を埋める。
「一騎、止せ……っ」
慌てて止めようとする総士の声など聞こえぬかのように、貪るようにその行為に没頭する。
こんなこと、自分からはほとんどしたことないけど。
それでも、少しでも。
「一騎……っっ」
「……っ」
噎せそうになるのを必死に耐えて、吐き出された熱を全て飲み込んだ。
「あの傷、おまえの左目の傷は…、昔、ここで俺がつけたんだ」
「え…」
突然の出来事と言葉に、総士はまるで思考が追いついていっていないかのようだった。
苛立たしい。
そんな総士も。
今のこの現実も。
そして、自分自身さえも。
「思い出せよ、ここで…」
声が震える。
「おまえが俺を、抱いたんだろう!?」
「…!?」
そう、ここは。
初めて躯を繋げた場所。
自分のココロを、知ろうとしないまま。
「ここで、初めて…っ」
ふわりと、ぬくもりに包まれる。
震える体も、心も包み込むかのように。
総士が一騎を抱きしめていた。
気付かぬうちに溢れていた涙を、総士がそっと唇で拭う。
「思い出せよ…、頼むから……っ」
戦慄く唇。
その言葉しか知らないかのように、同じ言葉を何度も繰り返し紡いで。
恐る恐る総士の背中に回した腕。
まるで縋りつくように、強く抱き返した。
そしてそのまま、空の青が黄昏の色に染まるまで。
ずっと一騎は泣き続けていた。
泣かないで。
必ず、帰るから。
だから ―― …
「ごめん」
ただその一言だけ、ぽつりと呟いて。
一騎が総士の腕から脱け出した。
そして無言のまま、帰路へとついた。
その日の夕食も、必要最低限度の会話しか交わさずに。
眠れぬ夜に、それでも床に就いた。
ぱりーん
突如響いた音に、一騎ががばっと布団を跳ね上げた。
急いで音のした方 ―― 作業場の方に向かうと。
「総士!?」
飛び散った器の欠片。
そしてその傍で蹲る総士に交互に目を遣りながら、急いで総士の体を抱き上げようとすると。
「…!?」
手に触れたぬるりとした感触。
忘れようもない、この温かさと匂いは。
(血 ―― !?)
一瞬にして顔から血の気が引いていく。
見ると、薄暗い中でも総士の顔から血が流れているのがわかった。
左目に走る傷痕から。
「総士!?」
(まさか……)
自分があんなことを言ったから。
「一…騎……」
ゆっくりと、総士が名前を呼ぶ。
その瞼も、ゆっくりとだが開いていく。
「総士!!」
総士の指が、ゆっくりとなぞるように一騎の唇に触れて。
それからそっと、目尻へと移動させる。
まるで。
見えない涙を、拭うかのように。
「帰らなきゃいけないって、思ったんだ」
「え…」
「泣いてるから、だから早く帰らなきゃ、って」
ゆっくりと、その唇が笑みを作る。
「おまえが、泣いてるから」
「総…士……?」
そしてそのまま、一騎の顔を引き寄せて唇を寄せた。
「…ン、…ふ……」
少しだけ、血の味がしたけれど。
それは確かに総士のキスで。
ようやく離された唇とともに、ゆっくりと瞼を開くと。
総士の左目に、確かに傷があって。
もう古い、傷痕が。
「…この傷は、僕が僕である証」
そう確かに。
互いの心を縛ったこともあった。
何度も擦れ違ったけれど。
それすらも、絆だったから。
「待たせてごめん」
楽しいばかりの想い出じゃない。
傷つけあったことだってあったけれど。
すべてが、大切なものだから。
失えない。
そして。
一番大切な……
「ただいま、一騎」
「総士…っ」
ここが、僕の帰る場所。
--- 2005.1.10 ---
どうしてしまったのだろう、自分は。
―― そんな問い、無意味だ。
だって、わかってる。
押し寄せるこの虚無感。
その理由。
わかりたくなどないけれど、わかりきっているから。
喪ってしまったから。
”永遠の楽園”を。
ただぼんやりと、その部屋に立ち尽くす。
主を失った部屋は、初めて案内されたあの日のまま。
必要最低限度の家具と、壁に貼られた一枚の写真。
愛しそうに、そっと撫でるようにその写真に触れてみる。
あいつは、どんな風にこの写真を眺めていたのだろう。
どんな、想いで。
どれだけの痛みを抱えて。
「………」
今更ながらに押し寄せる後悔は、果てしなくて。
せめてその半分でも、痛みを分かち合えたなら。
一緒に、背負えたなら。
「総…士……っ」
わかっている。
そう思うことすら、自分のエゴだということ。
自己満足にすぎないことなど、わかっている。
けれど。
それでも、少しでも。
「総士……!!」
わかりたい。
総士の痛み。
総士の抱える闇。
けれど。
(今は…)
今は、いない。
総士は、ここに。
(ここに)
いない。
いてほしいのに。
ここに。
自分の傍に。
「総士…」
崩れ落ちるようにベッドに倒れこむ。
ここでも、何度も躯を重ねた。
覚えてる。
どんな風に、総士が自分を抱いたか。
こんなにも、はっきりと。
「……っ」
顔を埋めたシーツに残る、総士の匂い。
忘れるわけがない。
だってそれは、焦がれていたもの。
「…ン……」
総士の匂い。
微かなそれは、まるで麻薬。
いつだって、欲しくてたまらない。
脳の奥まで痺れてしまったかのような感覚に陥ったまま、自然に手がそこに伸びて。
「ぁ、ふ…」
動きが徐々に早くなる。
段々と荒げる己の呼吸と鼓動。
「総、士…ッ」
てのひらに吐き出した熱と共に、流れ落ちた涙。
止まらない。
自分では止めることなんて、できない。
どれだけシーツを濡らしても。
(早く)
自分ではどうしようもない。
(早く……っ)
どうすることもできない、から。
ただ、待ち続ける。
楽園の回復を。
--- 2005.2.11 ---
総士が帰ってきた。
あれから約1年。
約束した通りに。
ここに。
…自分のいる、場所に。
「あの時のままなんだな」
空気の抜けるような音とともに、その扉が開いて。
一緒に、その場所へと足を踏み入れる。
「掃除、おまえがしてくれてたんだろう? 一騎」
「う、ん…」
柔らかい笑みを浮かべたまま、確信をもって訊いてくる総士に、小さな声で肯定する。
視線を合わせられない。
先ほどから、一騎は「うん」とか「ああ」とか、話しかけられても言葉少なにしか声を発していなかった。
どうしてだろう。
妙に、気恥ずかしくて。
本当は、嬉しくて仕方ないのに。
話したいことだって、たくさんあるのに。
それなのに。
言葉は思うように出ず、視線すら、合わせられない。
総士が、そこにいるのに。
「どうした? 一騎」
いつの間にか俯き気味に考え込んでいたらしい。
総士の言葉に、がばっと顔を上げると、総士はじっとこちらを見つめていて。
「………っ」
頬が熱い。
でも、視線を逸らせない。
総士の瞳の中に、自分が映っている。
ここに、いる。
総士も、自分も。
「何か飲むか? 自販機なら、すぐそこだから」
往復でも22歩だ、と初めてこの部屋に招じ入れられた時と同じような事を言って、総士が踵を返そうとする。
「あ、いや。俺は…っ」
咄嗟に、その背中に手を伸ばして。
総士の制服を掴んでいた。
ぎゅっと、強く。
「一騎…?」
「あ…」
自分でも思いがけない行為に、しばらくそのまま動けずに。
そして、唐突に気付く。
「ご、ごめんっ」
慌てて、ぱっと手を離した。
火が出そうなほど、顔は熱くて。
恐らくは耳まで真っ赤になっているだろう。
(何やってるんだ、俺…)
無意識の行為。
けれど、それは。
心の奥底から湧き起こる願い。
―― 置いていかないで。
どこにも、いかないで。
たとえ、僅かな時間でも。
離れたくない。
「一騎」
その願いを知ってか知らずか、呼ばれた名前と共に与えられる温もりは、一瞬のうちにこの胸に安堵を齎して。
(あ…)
あれから1年が経って、身長だって伸びたのに。
それでも総士の方が、まだ僅かに自分より背が高い。
耳元をくすぐる総士の微かな息遣いすら、安寧を与えてくれる。
ここにいる、証。
伝わってくる体温。
鼓動。
すべてが。
”総士”という存在の証。
「僕がいなくて、寂しかったか?」
ただぼんやりと、その証を感じていると。
総士がぽつりと呟いた。
「ね、一騎?」
言葉では答えずに、ぎゅっと総士の体を抱き返した。
その肩に、強く顔を埋めて。
しばらくの間、ただじっと抱き合って。
どれだけの時間が経過したのか。
ふいに総士が一騎の肩に手を置いて、そっとその体を引き剥がした。
「総、士…?」
肩に手を置かれたまま、じっと向き合って。
総士の言葉を待つ。
「一騎、…この部屋、掃除する時」
「うん…?」
何故今その話題を持ち出すのかよくわからないという具合に一騎は首を傾げるけれど、先を促すように相槌を打つ。
「何、考えてた?」
「………っ」
言葉に詰まる。
すべて見透かしてしまいそうなほど、総士の視線は真っ直ぐで。
このままでは、見透かされてしまう。
自分の心。
でも、逸らせない。
「僕のこと?」
「………」
言えるわけがない。
この部屋で自慰に耽っていたなどと。
少しでも、総士がいた証が欲しくて。
その存在の痕跡を、留めていたくて。
幾度となく躯を繋げたこのシーツの上で、微かに残る総士の匂いに感じたなどと。
どうして、言えるものか。
「一騎?」
……けれど。
きっと、総士はわかっている。
見通されている。
悔しいけれど。
…それでも。
「一騎」
いつの間にか噛みしめていた唇を解くように、総士の唇が柔らかく触れてくる。
最初は軽く。
「ん…、ぅ……」
段々と、深く。
「は……」
名残惜しそうに離れていく唇を、また追いかけるように今度は一騎から口付けた。
何度も、何度も。
ずっと、こうしたかった。
総士に、触れたかった。
触れて、ほしかった。
「どんな風に慰めてた?」
ようやく離れた唇が、心持ち楽しそうに、そんなことを耳元で囁く。
(やっぱり…)
やはり、見透かされていた。
羞恥に体を震わす一騎に、それでも総士は容赦なく言葉を続ける。
「見せて? 一騎」
「え…」
驚いて見つめ返したその瞳には、有無を言わせぬ力があって。
「どんな風にしてたのか。見せて、一騎」
命じられるままに。
力なくベッドの上に腰を下ろして、震える手でジッパーを下ろす。
狭い室内に、その音がやけに大きく響いた気がして、それが更にまた一騎の羞恥を煽る。
総士はじっとその様を黙って見つめていた。
「ふ…」
おそるおそる取り出した自身は、既に先ほどのキスで昂り、その先端は濡れていた。
「総…士…」
軽く扱いただけで、くちゅりと粘着質な音が辺りに充満する。
雫は、次から次へと溢れ出して。
注がれる視線。
真っ直ぐに。
その視線の先、火傷しそうなほど、熱くて。
「嫌、だ……、こんなの…」
熱い。
総士の視線も。
躯の奥深く、疼く熱も。
…焦がれ続けていたから。
「おまえが、そこにいるのに」
「…恥ずかしい?」
咄嗟に発せられた問いに、大きく頭(かぶり)を振って。
そうじゃない。
そうじゃ、なくて。
「……おまえが、いい…」
溢れてくる。
想いも、すべて。
この熱と、共に。
「おまえが、いい。総、士……っ」
そこにいる。
望んだ相手が。
焦がれ続けた人が。
総士が、そこにいるから。
「おまえ、が……」
何度でも繰り返していい。
手に入るなら。
「総士」
その名前が。
確かに、届くなら。
「一騎…」
知らず零れ落ちた涙を掬い上げるように、総士の唇が頬を掠める。
「総士が…いい……」
熱に浮かされたように、ただその言葉だけを繰り返して。
力なく瞳を閉じると、ふわりと抱え上げられた感覚が襲う。
そして。
「あ、ぁ……っ」
「まだ挿れただけなのに。…そんなに僕が欲しかった?」
突然埋められた熱に、今にも弾けんばかりだった自身はすべてを解放して。
びくびくと震えながら、まだ着用し始めたばかりの真新しい制服を汚していく。
それでも自身はまだ昂ったまま。
そして、総士を受け入れるそこもまた。
慣らしもしていなかったのに、すんなりと総士を迎え入れ。
離さないとでもいうかのように、締め付ける。
「悪い子だな、一騎は。いつからそんなに淫乱になったんだ?」
耳元で囁く総士の声も、掠れていた。
「おまえの…所為だ」
―― 熱い。
「おまえが、いないから…っ」
融けてしまいそうなほど。
「だから、おまえが悪いんだ」
繋がった場所から。
「責任、取れよ」
融けて、ひとつになって。
同化してしまえばいい。
「も…う、どこにも…行くな……っ」
「うん」
ひとつに、なろう?
「どこにも行かない」
互いが、在れば。
楽園は。
ここに在る。
--- 2005.2.11 / 初出・オフライン発行 総一16禁アンソロジー『あなたはそこにいますか2』 ---
「おはよう、総士」
躊躇いがちにかけられた声に振り返る。
教室の入口に立つ、一騎。
そして、その後ろに見えるのは…
(遠見、か?)
時折一緒に登校する姿を見かけることがある。
通学ルートは同じなのだから、偶然同じになることは確かにあるだろう。
あまり自ら人と関わろうとしない一騎に、それでも遠見は自分から関わりを持とうとしているのは目に見えて明らかだった。
「おはよう。…一騎、昼休みは5時間目の準備をするから実験室に来てくれ」
「え? あ、ああ…」
僕と一騎の出席番号は続いているから、一緒に日直を務めるのは至極当然のことで。
それに付随する仕事も勿論一緒にやるのだから、用件だけを淡々と告げた。
「一騎君、私も手伝うよ」
(……本当にあからさまだな)
僕に向けられる遠見の視線。
不信感、というか敵愾心、だろうか。
彼女は気付いているのかもしれない。
彼女の洞察力は人一倍長けているから。
(…別に、気にする必要もない)
気付かれていようが関係ない。
いや、寧ろ気付いてくれて構わない。
(昼休みが楽しみだな)
「総士? もういるのか?」
「ああ」
僕より少し遅れて一騎が実験室にやって来た。
「…って、おまえもう準備始めてたのか?」
驚いたように一騎が僕の方を振り返る。
必要最低限度の準備は、一騎を待つ僅かな時間の間に済ませておいたから。
「悪い、総士」
「気にするな」
そう言いながら、一騎の細い腰へと手を伸ばす。
「んぅ…!?」
突然のことに驚いた一騎が必死に僕の体を押しのけようとするけれど、塞いだ唇からは段々と甘い息が洩れ始める。
わざと大きな音を立てて舌を絡め取ると、一騎の体から急速に力が抜けていく。
「は、ぁ…」
ようやく唇を離すと、一騎は床にへたりこんでしまった。
それに覆い被さるように、再び唇を落とす。
唇から頬、耳朶、そして鎖骨へと。
「嫌、だ……、総士…」
そう言いながらも、その肌は熱を帯びて。
「ここ、苦しそうだな。一騎」
そう言って一騎のズボンを下着ごと下ろすと、それは既に硬さを増して。
「あ…」
慌てた一騎が何かを言おうとした、その時。
「一騎くん、皆城くん」
元気よく開いたドアと、弾むように投げかけられる声。
その声に、一騎の体がびくんと震えた。
(遠見か)
「あれ? ふたりともいないの?」
扉からは死角になっているせいもあり、遠見が立っている場所からは僕たちの姿は見えない。
一騎の顔面からはすっかり血の気が失せていた。
「……っ」
くちゅり
卑猥な水音を上げたのは、僕の掌で包まれた一騎自身。
わざとゆっくりと撫で上げるように、指を絡めて。
一騎は非難めいた視線を投げかけてくるけれど、やめるはずもない。
思わず上がりそうになる嬌声を、一騎は必死に堪えていた。
「教室帰っちゃったのかな…?」
残念そうな声と共に、扉の閉まる音が響いて。
あとには遠ざかる足音だけが残った。
安堵の息を吐き出した一騎が、きっとこちらを睨めつけるように見つめてくる。
けれど、そんなことも予測の範疇だ。
「折角だからこれでも挿れてみるか?」
「………っ」
一騎が息を呑むのがわかる。
一騎の視線など物ともせず、僕が手にして見せたものは、今から授業で使うはずの試験管。
「これ1本じゃ一騎には足りないだろうから、2本でもいいけど」
「総士…っ」
咎めるように名前を呼ぶけれど、それすらも僕の嗜虐心をそそるものでしかない。
「ああでも、一騎はすぐ締め付けるから、気をつけないと中で割れるかもしれないな」
一騎の顔から一気に血の気がひいていく。
「ひとつずつ丁寧に破片を取り除いてやらないといけないな。僕の出したものを掻き出すより大変だろう、きっと」
「総士……?」
薄く笑う僕を見て、信じられないとばかりに一騎が名前を呼ぶ。
「何、考えてるんだよ、おまえ…っ」
(何を、だと?)
決まっている。
一騎のことだけだ。
本当は、そう。
いつだって。
「ひぁ……っ」
入口をなぞるように試験管を当ててやると、その冷たさに竦んだのか、一騎の躯がびくんと震えた。
けれどそこは、物欲しそうにひくついて。
このままちょっとずらせば、試験管などすんなり咥え込みそうなほどに。
「……あ…っ、う……」
握りこんだままだった一騎のそれを徐に扱き出すと、予告もなく開始された動きに容易く硬さを取り戻していく。
「どっちがいい? 僕か、試験管か。…それとも、両方か?」
「ぅ…っ」
否応なく激しくなる動きに、先端からは溢れた雫が幾筋も伝って床を濡らしていた。
「欲張りだな、一騎は。でもそれだと、もし万一割れた時に僕まで怪我してしまうから遠慮被りたい」
「あ、……」
一騎は嫌々をするように、頭を振る。
何かを言おうとするけれど、与えられた刺激で言葉にならないようだ。
「もう一度聞く。僕と試験管、どっちがいいんだ?」
「………し」
「聞こえない」
「…総、士……っ」
与えられた答えに、僕は口元だけで笑った。
「は……」
そして徐に、慣らしもしていない一騎の入口に己を突き立てた。
それでも溢れていた先走りのせいか、そこまで抵抗はなく。
一騎の腰をしっかり掴んで根元まで呑み込ませた。
「ア、ぁ…」
一騎の躯がびくびくと震えるけれど、全部入れた途端に扱いていた手をぴたりと止める。
「……?」
熱で潤んだ瞳で不思議そうに見つめてくる一騎に、声音だけは優しく、囁きかけた。
「どうした? 自分で動かないとずっとこのままだぞ」
「え…」
僕は突き上げることもせず、腰を支えていた手も外して、僕の上に跨る一騎に笑いかける。
その間も、時間は刻一刻と過ぎていた。
「ほら、早くしないと他の生徒たちもやってくるぞ」
「………っ」
その瞳に浮かぶのは、羞恥の涙か、それとも…快楽により齎された涙なのか。
確実にその吐息には甘いものが混じっていく。
一騎は気付いているのだろうか。
情欲に掠れていく声。
煽られて染まる躯。
最初は躊躇いがちだったものが、段々と加速されていく動き。
一心不乱に腰を振る一騎の瞳は、何を映しているのだろう。
相変わらず火傷しそうに熱い内は、貪るように締め付けてくるのに。
……そう、たとえ躯だけでも。
繋がっている間だけは、こんなにも僕を欲しているのに。
(違う…)
一騎は欲してなどいない。
それは、僕に都合のいい幻想にすぎない。
求めてなどいない、僕には何も。
僕に抱いているのは。
罪悪感、だけ。
「ぁ、あ…、総…士……っ」
「……ッ」
掌に一騎の熱を感じるのと、一騎の内に僕の熱を吐き出すのはほとんど同時で。
「む、……ぅ…」
荒い息を吐き出す口に、捩じりこむように指を咥えさせる。
その舌に、自ら吐き出した熱を擦り付けるように。
濡れた音を立てながら、必死に僕の指をしゃぶる一騎は熱に浮かされたような顔のまま。
何故か胸に燻る苛立たしさを閉じ込めるように、その唇を塞ぐ。
口の中に拡がる、よく知った一騎の味。
その熱も、混じりあう唾液も、すべて自分のものだと主張するように、貪って。
いっそ目撃されてしまえば楽になるだろうか?
僕を咥え込んだまま、よがり狂う姿を晒してしまえば。
「は…」
ようやく唇を離すと、一騎はぐったりと力なく僕の胸に倒れこんできた。
その時だった。
「皆城くん、一騎くん。いるの?」
ガラガラと扉が開く音と同時に投げかけられた声。
「蔵前か?」
一騎の顔は見せないように支えたまま立ち上がる。
「? 一騎くん、どうかしたの?」
訝しげに投げられた声に、一騎の体が僅かにびくりと震えた。
「ああ、どうも急に具合が悪くなったらしい。薬品にあたったのかもしれないが…」
「大丈夫なの?」
「保健室に連れて行ってくる。悪いが、今日の当番を代わってもらってもいいか?」
「わかったわ、羽佐間先生には伝えておくから」
「すまない」
そう告げるやいなや、ひょいと一騎を横抱きに抱える。
「そ、総士…っ」
慌てたように声をかけてくる一騎とは目を合わそうとはせずに、廊下へと出る。
「恥ずかしいなら、顔を見られないようにしておけ」
「………」
そう言うと、一騎は力なく僕の胸に顔を埋めた。
一騎には、僕に抱えられたままの保健室への道が長く感じられたかもしれない。
弓子先生は、普段保健室とは無縁の一騎の来訪に驚いていたようだが、僕の嘘の説明をあっさり信じたらしく、あまり深く追求することもなく、保健室のベッドを提供してくれた。
優等生の顔というのは便利だ。
静かにベッドの上に下ろしてやると、一騎はまだ力が入らないのか、特に抵抗することもなく横たえられて。
「僕は授業に戻る。5時間目はこのまま休んでおけ」
その言葉に向けられた一騎の視線。
まだ熱にうかされたような瞳は、まるで。
置き去りにされた子犬のようで。
一騎は何かを言いかけて、けれど、小さく。
「……ありがとう…」
その言葉だけを、口にした。
それには何も答えずに、弓子先生に目礼してから保健室を出る。
重い足取りを実験室へと向けながら思う。
あれは、一騎にとっては贖罪の行為。
ならば、僕は。
どうして、一騎を抱くのだろう。
あんなことを繰り返しても、手に入りはしないのに。
その時ふと浮かんだ、先程向けられた一騎の視線。
物言いたげな、寂しそうな瞳。
(寂しい……?)
思わず浮かんだ言葉に、我ながら苦笑が洩れる。
そんなこと、あるはずないじゃないか。
むしろ、今の時間だけでも僕から解放されて喜んでいるはずだ。
一騎が僕を望むなんて、そんなことありえない。
あるはずがない。
そんな、都合のいい幻は ――
ずきん
痛んだのは、左目の古い傷痕。
この傷がなければ。
…いや。
この傷が、あるから。
解放されたいのはどちらだろう。
縛られたのは…
「総士、”東京”に行ってもらいたい」
「…はい、父さん」
新しい”鎖”は。
始まりと終わり、どちらを齎すだろう。
--- 2005.4.13 / 初出・オフライン発行『Visions of boys』 ---
| 05 | 2026/06 | 07 |
| S | M | T | W | T | F | S |
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| 28 | 29 | 30 |
真性アスキラー。
思いもよらずダブルOが歴代G
の中で一番好きな状況に。
成層圏の向こう側まで狙い
撃つ兄貴を愛してやまず。
BAS●RAの影響で戦国史に
どっぷり。VIVA眼帯。
えろすきーだけどホモスキー
に非ず。
オフラインでは【絶対零度】
というサークル名で活動中。